異国の記憶、明日の思想

元女子大生2人が送る究極のエンターテイメント

僕はまだ精神の安定を成し得ない。

ごきげんよう、てふてふです。

梅雨も明け、無慈悲にも厳しい夏の開幕を

感じますね。

 

前回があんなに多幸感に溢れていた(?)ブログだったのに、今回はバキバキの鬱です。

ウキウキの夏、希望…………あややも卒倒するほどの暗さ…知らんけど…

 


ここから先はもう文体から暗さを滲ませてくので…お気をつけください…(?)

 

 

*************************************************************

 

 

 

なにはなんとも精神が安定しない。

生きるのが少ししんどいんだ。

漠然と心の中に、ずっとずっとモヤがかかっているような、喉にちょっとした小骨が引っかかっているような、

そんな些細な”生きづらさ”と共存している気がする。

 


なにか大きな要因があるわけではないはずだ。

確かに嫌でも耳に入ってきてしまうコロナ情報、

仕事も雲行きは怪しいけれども、平時よりもお休みも、生活できるお給料も貰えてるんだ。

だから別に致命傷ではないんだ。

 

むしろわたしは、人の世の幸せを享受できているはずなのにな。

 

わたし、という人間はもうずっとこうだ。

ただただ漠然と、生きることがめんどくさいなと思ってしまうんだな。ただ、死にたいと同義ではない。死にたくないけど生きたくない、そういう機微か。

 


少し前に、母に生きづらさについて話してみた。

母はてんでそういった感情は抱いたことがないようだった。つくづく母とはなにもかも真反対だ。

だから、もはやなんとも思わなかった。

でも母なりにわたしを理解しようとしてくれたのだろう、

「おばさんになればそんな事も悩まなくなるから

いいもんだよ」

そっと優しく言葉を掛けてくれて、この話は終わった。

 


この生きづらさが何なのか、いつか気づける日がくるのか。果たして理解することに意味はあるのか。

それとも、

そんなことすら忘れておばさんになっていくのだろうか。それは、痛みへの耐性が着くからなのか、はたまた些末なものへと形を変えてくれるからなのか。

 


幸せの花が綻ぶときは、きっとまだ遠いのだろう。

 

てふてふ