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読書家じゃない人のための読書論

新型コロナが流行してから私は家にずっと籠っていた。籠っていたので、やることがもう読書とゲームぐらいしかなかった。今までの旅行した写真とかは悲しくなるから観れなかった。というわけで、「読書かくあるべき」を悶々と考えていたというわけである。

 

結論からいうと、世の中一般に流布している「読書かくあるべし」論は正しくない、ということをここで私は主張したい。正しくないというと語弊があるが、「読書ってどうすればいいのかな」という問いを持っている人に対して与えてる解がおかしいということだ。読書論なんて高尚なことを言ってる風にしているが、その実拝金主義にまみれていませんか、ということだ。

 

予め断っておくと「読書ってどうすればいいのかな」という問いを持っている人に、古典を読破し大学では哲学を専攻していたような猛者は入れていない。その「読書ってどうすればいいのかな」はもはや違う問いである。哲学的な問いである。

 

「読書ってどうすればいいのかな」という問いを持っている人とは、「なんとなく読書して、なんとなく人生を豊かにしたいと思っているが、どういう本を読めばいいかわからない人」であり、具体的に言えば下記を想定している。

・子供時代~大学時代まで一切本を読んでいないが、最近本って読んだ方がいいのかなと思っている人

・子供時代~大学時代までそれなりに本を読んできたが、実のある読書をしていないなと思っている人

 

私の少ない人生経験と読書経験が導き出した答えは「本屋や図書館に行って目がとまった本を読む。その次に面白いなと思った本で紹介している本、もしくは面白いと思った作者が読んでいる本を読む」である。これは、人間は問題意識があることじゃないと脳内に情報が残らないということと、人間は自分が見たいものを見るという原則に従っている。どこかの学者や評論家が勧めている本を読んでも、自分が面白いと思わない限り脳内に情報が残らないし「で、なんだっけ」となるだけである。

 

勘の良い読者は気が付いたように思うが、私がここで批判しているのは「情報社会を生き抜くためには教養を身に着けよう!」「教養は古典で身に着く!」「こういう古典を読もう!」という主張をしている方々である。彼らは古典の面白さを解くよりも、「お前そのままじゃやばいよ!」という危機感を煽るのがとても上手だ。もちろん、このご時世炎上や訴訟が怖いので具体的な名前を書くことはしないが、彼らの本は言葉巧みに危機感だけ煽り、あたかも彼らの本を読めば危機感を解消できる、つまり教養が身に着くかもしれないことを売りにしている。なんたる拝金主義!いつお金になるかわからない知識や教養をお金に変える、なんとも巧みなマーケティング手法なんだろうか。

 

確かに、情報の砂粒時代と言われる現代で、自分に必要な情報を取捨選択し、複雑怪奇、魑魅魍魎な社会で労働者、ブルジョワ、投資家として生きていくためには教養が必要かもしれない。でもそれは、「教養が身に着く本」なるものを読んでも身に着くことはない。自分が面白いと思う知識を日々コレクションしていくしかない。その方法は、本かもしれないし、映画かもしれないし、料理かもしれないし、旅行かもしれない。だから教養を身に着けるために本を読め!古典を読め!というのは正しくない、と私は思うのである。(まれーヴぃち)

 

※本記事は特定の人物、書籍を批判することを目的に作成されておりませんことにご留意ください。