異国の記憶、明日の思想

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村田紗耶香作品を考える※ネタバレ注意

はじめに

村田紗耶香ワールドは独特で、強烈で、繊細である。正直1日にたくさん読むと気分が悪くなるぐらいの刺激で、なのに読まずにいられない魅力に溢れている(なので私は1日に読んでいいのは1冊だけと決めている)。

そんな素敵な作品たちについての考察(もしくは感想)がGoogleで検索しても、Twitterで検索しても、読書メーターで検索しても、思ったように出てこなかったで、自分で書いてみようと思う。

結論からいうと、村田紗耶香作品は3つのモチーフがテーマだと思う。①普通と普通じゃないの境界線、②女性性の取り扱いの難しさ、③家庭内不和下での「わたし」、である。本考察では、各モチーフについての私の解釈と、村田紗耶香作品の最大の魅力の一つであるそれらをどう表現するかについて書きたい。

記念すべき第1回では①普通と普通じゃないの境界線を取り扱う。

※実は私はまだ全ての村田作品を読んでいない。まだまだお楽しみ最中である。なので、今段階の私の考察を書きたいと思う。もしかしたら更新するかもしれない。

①普通と普通じゃないの境界線

「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」-アインシュタイン

 私の解釈①

大学3年生、心理学の授業で集団心理について習った。明らかに間違っている意見でも自分以外の人間が賛成しているとつい賛成してしまう、というものだ。確かNHKでもとりあげていたし、小説や漫画でも度々出てくる有名な話だと思う。

村田紗耶香作品は正に「今わたし達が普通だと思ってることって誰かが決めたことであり、実は普通だと思ってることが普通じゃない世界線がある」ことを扱っている。

例えば、男女雇用均等法が成立する前は女性の社会進出は恥ずべきごとでやってもせいぜいお茶くみとかそういう扱いが大多数だった。けれども2020年現代、未だにお茶くみだけやる女性労働者はあまりいないだろう。

社会構造の変化によって、あるべき姿が変わり、価値観が変容する。日本で最もノーベル経済学賞が近いと言われた青木昌彦教授が第一人者の比較制度分析のセオリーである。

「これが普通」という価値観は、普遍的なものではなく、あくまでその時の社会構造によるつくられた「あるべき姿」に影響するものなのである。

作品上での表現

『地球人間』では、私と私が契約結婚をしている伴侶は中々「普通の社会」に馴染めないでおり、自分たちを「宇宙人(ポハピピンポボピア星人)だと考えている。その上で「普通の社会」のことを「工場」と称している。いわば「普通の価値観を信じる人間」を大量生産する工場のようなものだと。

コンビニ人間』はかなり分かりやすく「普通がわからない私」と「普通がわかる他の人」たちが表現されている。「コンビニ店員という動物(コンビニ人間)」であるという表現から、「普通がわからない私」はラベリングされる=「普通がわかる他の人」たちはラベリングされないという対比があることが分かる。

また、『消滅世界』の夫婦間で性交渉、出産を行うことは不潔とする価値観(まさに社会構造の変化による価値観の変容!)や『殺人出産』の10人出産したら1人殺せる世界(まさに…以下略)等、村田ワールドでは、普通と普通じゃないの境界がモチーフとして取り上げられている。

私の解釈②

村田紗耶香作品を読んでいて、ゾク…とするのはその普通と普通じゃないの境界線に主人公がたち、そして普通じゃない側に突き進むその瞬間である。同時に、また碌な事にならないと悟る。(だがそれがいい)

これが刺さるのは、大学卒業して新社会人になり会社独特の慣習に戸惑い、そして慣れてきた頃の人間だったり、何か部活動に入り独特のルールに困惑し、そして受け入れてきた頃の人間だと思う。

最初は違和感を覚えていたのに、いつの間にか自分の「普通」が塗り替えられて、何も疑わなくなった…でもやっぱりおかしいよね!?という自分の感性をいつまでも持ち続けたい。

おわりに

 村田ワールドにハマる内に、同じモチーフが繰り返されることに気が付いた。そしていつかまとめてみたいと思うようになった。これらのモチーフをここまで「ギリ楽しく読める」状態で表現する作家を私は他に知らないので、本当に魅力的だと思う。ただ、村田作品を読んでいる時と同様に、まとめるにもMPをごっそり持っていかれることを学んだ…。(まれーヴぃち)

本記事に出てくる作品

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読書家じゃない人のための読書論

新型コロナが流行してから私は家にずっと籠っていた。籠っていたので、やることがもう読書とゲームぐらいしかなかった。今までの旅行した写真とかは悲しくなるから観れなかった。というわけで、「読書かくあるべき」を悶々と考えていたというわけである。

 

結論からいうと、世の中一般に流布している「読書かくあるべし」論は正しくない、ということをここで私は主張したい。正しくないというと語弊があるが、「読書ってどうすればいいのかな」という問いを持っている人に対して与えてる解がおかしいということだ。読書論なんて高尚なことを言ってる風にしているが、その実拝金主義にまみれていませんか、ということだ。

 

予め断っておくと「読書ってどうすればいいのかな」という問いを持っている人に、古典を読破し大学では哲学を専攻していたような猛者は入れていない。その「読書ってどうすればいいのかな」はもはや違う問いである。哲学的な問いである。

 

「読書ってどうすればいいのかな」という問いを持っている人とは、「なんとなく読書して、なんとなく人生を豊かにしたいと思っているが、どういう本を読めばいいかわからない人」であり、具体的に言えば下記を想定している。

・子供時代~大学時代まで一切本を読んでいないが、最近本って読んだ方がいいのかなと思っている人

・子供時代~大学時代までそれなりに本を読んできたが、実のある読書をしていないなと思っている人

 

私の少ない人生経験と読書経験が導き出した答えは「本屋や図書館に行って目がとまった本を読む。その次に面白いなと思った本で紹介している本、もしくは面白いと思った作者が読んでいる本を読む」である。これは、人間は問題意識があることじゃないと脳内に情報が残らないということと、人間は自分が見たいものを見るという原則に従っている。どこかの学者や評論家が勧めている本を読んでも、自分が面白いと思わない限り脳内に情報が残らないし「で、なんだっけ」となるだけである。

 

勘の良い読者は気が付いたように思うが、私がここで批判しているのは「情報社会を生き抜くためには教養を身に着けよう!」「教養は古典で身に着く!」「こういう古典を読もう!」という主張をしている方々である。彼らは古典の面白さを解くよりも、「お前そのままじゃやばいよ!」という危機感を煽るのがとても上手だ。もちろん、このご時世炎上や訴訟が怖いので具体的な名前を書くことはしないが、彼らの本は言葉巧みに危機感だけ煽り、あたかも彼らの本を読めば危機感を解消できる、つまり教養が身に着くかもしれないことを売りにしている。なんたる拝金主義!いつお金になるかわからない知識や教養をお金に変える、なんとも巧みなマーケティング手法なんだろうか。

 

確かに、情報の砂粒時代と言われる現代で、自分に必要な情報を取捨選択し、複雑怪奇、魑魅魍魎な社会で労働者、ブルジョワ、投資家として生きていくためには教養が必要かもしれない。でもそれは、「教養が身に着く本」なるものを読んでも身に着くことはない。自分が面白いと思う知識を日々コレクションしていくしかない。その方法は、本かもしれないし、映画かもしれないし、料理かもしれないし、旅行かもしれない。だから教養を身に着けるために本を読め!古典を読め!というのは正しくない、と私は思うのである。(まれーヴぃち)

 

※本記事は特定の人物、書籍を批判することを目的に作成されておりませんことにご留意ください。